昭和40年12月24日 朝の御理解



 昨日の私の方の謝恩祭を、善導寺の親先生が奉仕して下さいました。内々の祭と云うことで御座いましたけれども、やはり誰も昼、お祭があるとか通知もしませんし、知ってもいませんでしたけれども、先生がお祭りを仕えて下さる時には、やっぱりここお広前にパラッとではありましたけれども、一杯でございましたんですね。そん時お参りしておられる方は、お聞きになったと思うんですけども、親先生のお説教の主旨とでも申しましょうか、内容と云うですか。
 金光教の信心、お道の信心の助かりについてと云うようなお話でございました、ね。お道の信心の助かりと云うのはどういう様な事かと云うことを短い時間にお話になって居られたんですけども、いわゆるあいよかけよでの助かり、いわゆる神も助かり氏子も立ち行くと、又は親に掛かり子に掛かりと、そういう助かり方でなからなければお道の信心の助かりではないと云うこと強調してお話になったんですけども。
 本当に私は椛目の場合はそういう金光教の信心の助かりについてと云った様なではないけれども、そういう助かりに椛目の場合なっておると思うですね。私はそう思うんですよ。それを一番こう如実に現しておるのが今度の御造営だと思いますですね。昨日、一昨日でございましたか、一昨日の御祈念の後でございましたね。井上組からの今度の支払いの要求が請求がきとりました。
 それが、五百二十万と云う、金額で御座いました。当時は椛目にひっくるめて、ございますお金が、五百七十万でした当時。してみると、そこに二百何十万と云うお金が、不足と云うことになる。他にも二十五万ですか、支払うところがあるんですね。支払いが残ってるところがあったんです。それで、どうしてもそこに、五百四・五十万のお金が要ると云う訳なんです。
 ところがこれは私の信心の流儀でございますけども、昔からそうです。私が借金を負うて信心致しとります時に、いわゆる苦しんでおります時にまあ集金に見えます。お金があればあるだけお金を払う。払われない時には私の心の中に感じることは、今この人に払わなくても私が払えるときに払ったほうが本人としても一番都合のよいことになるのだと、これは私の信念でございます。
 ですからそん時には大変難儀ですね。集金に来られましても、お払いがでけませんから。けれども過去の体験から申しますと、その後にそれが払える時に、本当に大坪さん有難うございますと云って、まるきりもこの様に皆喜んで下さる様な時に、払わんならん様になってるですね。だから今度も井上組に、払いもあるだけ払っときゃいいのじゃないかとこう思ったんです。
 そういう様なことを、私は総代であります永瀬さん、又経理の担当しとります永瀬さんに、そのあんただん、借るこつばっかり考えとろばってん、それでよかつねと云う意味の事を話よった。時にちょうど高橋さんがお参りしあわせて居りました。そこでお初穂しとりましたが、私が喧し言ったもんだから、聞き耳立ててこうやってあるんです。すぐ後にここへやって参りましてから。
 先生昨日私委員長のところへ参りましたら、丁度古屋さんが見えていました。いわゆる管理者です。この建設、建築の支払いと云うのは、所謂建設管理者が例えば要求があると、それをいくら払うもんかと云う事を検討する。そして幾ら払えと云うのを払う事になっとる訳なんですね。所が先ずザアーッと計算したんですけども、今日の井上組の支払いは二百七十万て言よんなさったですよと、私やおかげだなあと思うのです。
 そういう時に。ここにあるお金が二百七十万、あちらが払わんならん計算してから、払わんならんのは井上組は、それだけの要求はあっとるけれども、実際はそん時払うこたいらん、二百七十万でよかち。まるっきりこっちの貯金通帳の帳尻を知っとられる様なその感じなんですね。私そういう時にですね、神様の働きと云うのを実感するですね。私、おかげ頂きよるなと云うことです。
 昨日委員長の発表で御座いましたけれども、まあどれだけのお金が必要になってくるか分かりませんけれども、現在までまだ大体四分通りぐらいが本当らしいですねえ。出来上がって居ると云うことが、それにまあお金が二千二百万円位支払いとここにあるので、集まっとるわけになるですね。けれども本当に有難いことですね。とにかく百万円の金ち云うても大した事なんですのにですね。
 この頃西久留米教会が三百万で見事な御神前がでけたと云う。それが問題になるぐらいだった。それが又椛目は一千五百万円もかけちから御造営するげなと云うてそれが評判になっとる。それからそんな評判だけで済むごたるなら、もう五・六百万なオーバーしてるごとなる訳ですけどね。椛目の場合はそんなことではない。いよいよこれからなんでございますけれども、その位におかげを頂いておると。
 しかもこれから先どうなるか分かりませんけれども、例えば今度の支払いの場合でも何とはなしに神様の働きを頂いとるなと云うことを実感するんですね。けどもこれは商売人誰でも同じでございますけど、年末という時には成程いくら金があっても足りないと云うのが商売人、事業しとる人達の実情なんです。それからですね、昨日又厳密に古屋さんが設計を設計じゃない計算をなさったところが、二百万でよい払うとが。
 そすとそんなら二十何万払ってそして他のところにもそれを払って二百万払ってもまあだ現在三百万ございましょうからその三百万から五・六十万は残ると云うことになる訳なんですけど、私の考えではそれは残すことはいらん、必要なら、だから私昨日も申しましたんですね。そんなら二百万でよかならですね、五十万ばかりかててあげて二百五十万ばっかり払いなさいと、そして他に二十五万払わんならんとでもみんな払ってしまいなさいとこう云う訳です。
 そんなこと云ってから昨日のお祭りの後に委員長を中心にして、企画の方達と、それから経理の方達と丁度十二時半頃まで色々とお話合いがあっとりました。そしてみんなここへ降りてきてからでございますもん、私に親先生のごと借らん主義借らん主義ばっかりはいきません、委員長の言うごとです、親先生あーたが借んなさっとじゃないですよち、例えば委員長私が借るとです。
 それをみんなで例えて云うなら五カ年計画なら五カ年計画で支払うていこうと云うのですけん、でそんなら親先生問題ありますまいもんち、私に言うわけなんです。私は黙って聞きよりました。そしたらですね、神様から頂きます事がですね、にんながらと云うことを頂きました。次に神ながら、にんながらを先に頂いて次に神ながらと頂くんです。ハハアー今日の善導寺の親先生がお話になったそのお道の信心の助かりと云うのはこれだなあと私は思うたです。
 お道の信心の助かりというのはです、只神様から神ながらにおかげを頂くと云うのではなくてです、神ながらと人ながらが一つになって渾然として、そこからよいものが生まれて来るところのがです、本当にお前達のおかげで助かった、いいえ神様のおかげで助かりましたと云うことになるのだ。只信心のいわば造営がでければです、神ながらにして忽然として御造営がでけるのじゃない。
 やはり人間のいわゆる神ながらに対するところの人ながらの、いわゆる一生懸命の信心がでけて、いわば人間氏子としても神様も御無理をなさるならば私共も無理をしてでもです、あいよかけよでこの働きが出来合うと云うところに神様は何とかして下さるだろうと云った様な神ながら的な生き方ではなくてです、そういう働き合がお道の信心の助かりと云うことだなあと云うことを昨日そのことを委員長に黙って聞いとるだけでしたから申しはしませんでした。
けども心の中では本当に感激致しましたですね。一生懸命にそういう様な検討が夕べ為されたわけでございましょう。して降りてきてからの秋永先生の話を聞かせて頂ながら、神様はそれが人ながらだと、人ながらの一生懸命の働きの中に神様が又神ながらな働きを示して下さるのだと。昨日皆さん残って、親先生のお祭り奉仕して下さった後に、下さったお説教のことが。
 今日親先生の言いなさったつは、なぁんなんかいっちょん分からんやったち云うてから、皆がいよるとですもんみんなが。けども折角お話下さったんだから分からなかったじゃいかんから、あの具体的に親先生はこういう事を私共に分かれと言うてお話下さったんだと云うことです。そういう様なことの中から、成程お道の信心の助かりとはそういう様な助かりだ、そこに神も立ち行き氏子も立ち行くところのおかげ。
 ただおかげは何処ででも受けられましょう。必ず金光様の信心だけではないでしょう。けども、金光様の御信心の助かりと云うのは、いわゆる神と氏子とが、云うならば平等です。ね、神と氏子とがいわば助かり合うていく、あいよかけよで立ち行くと云う生き方。そういう助かり方が、お道の信心の助かり方だと云うことを、具体的に現在椛目の、全部が取り組んでおるところの信心が。
 そのままお道の信心の助かりにつながっておるのであると云うことをです。だからもし親先生に椛目はこういう状態ですと云うたら、はあ、椛目こそお道の信心の助かりのと言われておるそういう信心の上に立って椛目の信心は進められておるんだなあと云うことがお分かりになるだろうと私は思うたんですけどね。これは勿論内々話です。椛目だけの話ですけどもね。
 そういう助かりね。例えば私自身の助かり、ここで申しますならば、私は何処までも神ながらだ。先程申します様に成程要求は五百何十万であっても、ところが椛目には二百七十万しかなかったと、当時ね、ところが管理者はその帳尻をまるきり知っとる、見とった様にです、支払いは二百七十万でよかと云うておる。そのことがです、私はそういう様なことが神ながらだとこう云う。
 けれども業者としてはです。そうでは御座いましょうけれども、どうしても五百万要るとこう云う例えば云うならばです、委員長が言っております様に二百七十万に足りない所は委員長私自身が借ります。私が借りてお供えすりゃいいでしょうもんと昨日も私に言うとりましたがです、はあそういう働きが人ながらな働きだなあと云う事になる訳ですね。   どうぞ。